心のたび

心のたび

11月の後半から、先日までの12日間程を使って、ヴィパッサナー瞑想へ行ってきました。
ヴィパッサナー瞑想とはブッタが悟りをひらいた瞑想法で、それは他の人と誰とも話さず、目も会わせず、
携帯に書き物読み物一切を手放し、
1日10時間超、ひたすら瞑想をして自己を見つめるもの。

5年程前にこの瞑想コースに初めて行って以来、今回は2回目の参加。
前回は、人から勧められるがままにただの興味本位で行ったのにたいし、今回は目的がはっきりしていた。
それは、心の奥底に眠る淀みを少しでも浄化すること。
そして、より純粋になること。

コースが始まり、最初の数日は波はあるものの、心穏やかに瞑想できていた。
しかし、5日目あたりから猛烈に太郎布に帰りたくなった。
太郎布の暮らしが楽しくて幸せで、ひかりに満ち溢れているから、早くそこの世界へと戻りたいという渇望が出てきた。
俺はこんなところで一体何をしているんだ?と。

そこからが地獄の始まりだった。
朝から晩まで太郎布の暮らしのことを、町の仲間達のことを考えるばかりで、思えば思うほどに、苦しくなってくる。
頭にエイリアンの卵のような塊が感覚として現れ、それは帰りたいと思えば思うほどに重く、大きくなり、頭が垂れ下がるほどまでになっていった。
心と体は密接に繋がっているもの。
瞑想をしていると、心の汚れが体のどこかに何かしらの感覚として現れてくる。
そしてその感覚に反応しないで観察していると、行き場を失った感覚は自然と消滅し、その時に心の汚れも消えてゆく。
そうして観察を続けてゆくと、過去に作り上げてきた汚れがどんどん現れては消えてゆく。

僕の場合、その汚れが強烈な渇望を呼び、それが感覚として体に出てきた。
そしてそれを観察することが出来ず、渇望のおもむくままにもろに反応してしまっていた。

だんだんと満ちてゆく月。
その月を見るたびに家のことを思い出し、執着が生まれる。
すると心は身の回りの世界との関わりを拒絶し、自ら小さくなり、孤独へと突き進んでゆく。
心から冷え込む夜が続いた。
幸せと苦は同時に存在していて、それは心次第でどちらにも行き来出来てしまうものだと体感できた。

そしてその苦しみは4日間程続き、最後の2日で瞑想が終わるというところで、帰りたいという欲に踊らされることがなくなった。
執着から離れた瞬間だった。 
苦しさが、頭の重さがフッと消え去っていった。
一瞬にしてひろがる心。
瞬間に満ち溢れてくるのは途方もない充足感にひかりだった。

振り替えるとこの数年、何処に行こうと、インドへ行ッた時でさえも、直ぐに太郎布に帰りたくなっていた。
太郎布のひかりに満ちた暮らし、それに対して自分のなかに巨大な執着があったこと、それを今回体感することが出来た。
そして訪れる先々で広がる新しい世界への展開を、その執着が壁となっていたことを。
また太郎布の地が心が僕の生きる地で、今の暮らし方がそのまま瞑想そのものだと。

冬前のこの一番忙しい時期に、10日間という時間を瞑想に使うことを許してくれた、環をはじめ回りの方々、そして僕自身にありがとうございます。
まだまだ深い汚れが染み付いている心。
これからの日々で、ひとつひとつの瞬間のなかの心の動きを大切に捉え、浄化し、より純粋に、広がっていこうと思いました。
僕が戻ると、入れ違いで今度は環が心のたびへと旅立って行きました。

みみをすます

奥会津金山町の山のてっぺんにある宿とcafe

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